ヒトノイロについて

ヒトノイロの由来
昔から十人十色という言葉があるように、10人いれば10通りの個性があるという。
そしてその個性を「人の色」といい、人それぞれの個性に価値がある。しかし、個性そのものが何なのか、案外自分では気づかないもので。
その価値ある個性をブランド化し、新しい価値を生み出すサポートをさせていただきたいという想いから「ヒトノイロ」と名付けました。
ヒトノイロをはじめる理由
生きるために我慢していることがどれだけあるでしょうか?
ストレスを抱えて生きている人がどれだけいるでしょうか?
やりたいことがあっても”何から始めればいいか分からない。”
得意なことはあるけど、仕事にするには、なかなか覚悟が決まらない。
ヒトノイロは、そんなあなたの背中を押せる存在でありたい。
かく言う私藤野も舞台衣装家になると決めてから、走りに走ってきました。人間関係に苦しみ、過労&疲労によるストレスからの顔面麻痺、最終的には気管支喘息発症に至り、自分らしく生きる道を歩め!と導かれるかの如く様々な試練を経験してきました。
だからこそ
「自分にとってのストレスとは何か?」
「できる限りストレスなく過ごすには、どうすればいいか?」
を考え始めることができ、対策を始められたと思っています。
人それぞれ「幸せの形」は違うと思いますが、人は皆幸せになりたいと願いながら生きているはず。
今を変えたい、変わりたいと思い始めた時が、本当の意味で自分の人生を歩む準備ができた時なのです。
一足飛びに今を変えられることはないなら、少しづつ変わる努力と準備を始める必要があるのではないでしょうか。
誰かの役に立ちながら、
日々笑顔で自分らしく過ごす人生を送るために、
あなたの才能を発信するための形をつくるお手伝いをさせていただければ幸いです。

プロフィール

藤野マコ(Maco Fujino)
職業:ビジュアルデザイナー|舞台衣装家
上田安子服飾専門学校卒業
創造社リカレントスクール三宮校卒業
兵庫県加古川市で生まれ育つ→結婚で大阪市へ→舞台衣装家のアシスタント時代東京・明大前駅に住む→西陣織の会社に就職し京都市に移る→現在兵庫県加古川市に在住
趣味:ソフトバレーボール、お米でパンづくり
他に学んだこと:ヘルスコーチング
略 歴
システムエンジニアの父の影響で、コンピューター専門学校に入学するも、ファッションへの興味を捨てきれず、卒業後ファッション専門学校に入学。オリジナルの服をつくり始める。
日本でのインターネット誕生を期に「作品集をつくるぞ!」と思い立って、ホームページビルダーでホームページを開設。ポートフォリオを兼ねた、ださ〜いホームページをなんとかつくりあげる。この頃から、オリジナル服を作ってはwebサイトにアップする形で創作活動を始める。
離婚後、塞ぎ込んでいた私を見兼ねた幼馴染に誘われてニューヨークを旅することに。
ブロードウェイで『ライオンキング』観劇中に「舞台衣装家になる!」と決めて帰国。帰国後、劇団四季に応募するも、面接官の前で、馬鹿正直に答えて不採用(笑)
落ち込む暇なく次の手を考える中、神戸新聞で掲載されていた演劇コラム最終回が目に止まり、神戸にも衣装に力を入れている劇団があることを知る。すぐに劇団神戸代表・演出の夏目俊二氏宛に想いをしたためた手紙を送る。
1週間程経った日の夜、自宅の電話が鳴る。渋い声色の男性。電話の主が夏目俊二氏と知った私の母は大興奮!母達の世代にとって、俳優夏目俊二は、銀幕スターであり、テレビで主役をつとめる大スターだったのだ。
数日後、元町商店街の”にしむら珈琲”で待ち合わせ。
私の舞台衣装家としての人生が動き始める。
第一線で活躍するプロの舞台美術家が集う、日本舞台美術家協会に所属した年、2つの賞を受賞。
これを期に上京。憧れだった舞台衣装家第一人者の先生の元でアシスタントとして従事。日本で一番集客できる劇団、その他バレエ、オペラの第一線の舞台を経験する。
しかし、何もかも裏目に出る状況が続き、極度のストレスから顔面麻痺の症状が現れ始める。何のために頑張っているのか、目的を見失い苦しい毎日が続く。痛みと闘いながら、客がまだ入っていない劇場のロビーで泣きながら横になることも。ギリギリの精神状態で劇団☆⚪︎⚪︎線の舞台での任務を全うし、逃げ出すようにアシスタントをやめる。こんなはずではなかった、人生2度目の挫折。
関西に戻った私を快く迎えてくれた劇団は古巣の劇団神戸。感謝しかない…
劇団のホームページをつくらせてもらい、この頃から、オーダーメイドの仕事を始めるために、Webサイト制作に力を入れ始める。
劇団時代の仲間から東京で劇団を立ち上げるので手伝って欲しいとの打診があり快諾。最初に行ったことが、劇団のイメージキャラクターデザインと、Webサイト制作だった。
作品もない、人もいない、あるのは「想い」と「理念」だけ。
今では、その想いに賛同し、集まってくれたメンバー達は、その、想いと理念に惹かれて来たと言ってくれている。
この頃から、本格的に衣装家➕ビジュアル全般の責任を担う様になる。
東京から戻り生計を立てるために、オーダーの受注以外に洋服のリフォーム会社に勤務。お直しの仕事は舞台衣装のリメイク作業にも本当に役立つ技術だった。が、コロナで仕事が激減し自宅待機を余儀なくされた事を期に、職業訓練校でWebデザイン・プログラミングを6ヶ月間学ぶことに。卒業後の就職先は、デザイン会社ではなく、京都西陣の織物会社。いつか携わりたかった伝統工芸の世界。40代半ばコロナ禍の折、正社員として京都で新たな生活を始める。
しかし、この頃から咳が止まらなくなり、気管支喘息発症。夜も眠れず仕事中も発作が続く。「命を削ってやりたい仕事ですか?」と言う医師の問いかけに、はたと気づき退社。
半世紀生きて言えること。それは、そこそこ頑張っただけのちっぽけな自分が、未来に何を残せるか。自分と同じようにクリエイティブに生きたい人の為に、何か役に立てることがあるんじゃないかという事。
そんな想いで、外見からブランド化するトータルブランディングのヒトノイロ始めました。